腐女子が二次創作について語るブログ

二次創作に関する愚痴とかお悩み相談とか小説の書き方のついて書いています。

小説を書くときの視点について

まず最初に言っておきたいのは、この記事は単に私が思ったことや言いたいことをまとめるために書いたもので、プロの作家でもないアマチュア字書き一個人の覚書にすぎません。マニュアルでも入門書でもありません。偉そうに上から目線でああしなさいこうしなさいと指図するつもりはないですし、興味がない人は読まなくていいです。自分の小説に既に自信がある人も、書き方を変えるつもりがない人も、読む必要はありません。
興味を持って読んでくれた人も、自分には合わないなと思ったらそっと閉じて忘れてください。ここに書いてあることが正しい!みんながこうすべき!とは思っていません。

ただ、これから小説を書いてみようという人や、書き始めたばかりの人、書き方がわからない人、より良い小説を書くには具体的にどうすればいいか知りたい人などに、届けばいいなと思って書いております。

本当はプロの作家さんが書いた入門書を読めば一番いいのですが……。


私も昔はそういう本をたくさん読みました。
で、初心者の頃に一番役に立った情報、そして今でも小説を書くときには常に頭に置いている重要事項がひとつあります。
私はそれを小説を書く人すべてに知っていてほしい、と思っています。それを知っているだけで、文章がぐんと読みやすいものになるからです。
もちろん、既に書いている人のほとんどは知っている基本事項なので、知っている人はこのブログは読まなくてもいいです。

ただ、ネットで見かける小説で、たぶんまだ小説を書き始めて浅いんだろうな…と思われる人のほとんどは、まずこれが出来ていない人が多いのです。
「知ってるけどよくわからない」「わかっているつもりで出来ていない」人もいるかもしれません。

それが、「視点」の問題です。

小説を書くときの視点というのは、「一人称」と「三人称」のニ種類に分けられます。

一人称とは、「ぼく」「私」「俺」などの自分自身を指す言葉のことです。
一人称で書かれる小説は、地の文(セリフ以外の文)が「ぼく」や「私」によって語られます。

つまり、主人公が自分のことを「ぼく」と言うキャラの場合、

『今朝ぼくは寝坊して学校に遅刻した』
『彼女はぼくを見てため息をついた』
『その光はぼくの体を包み込んだ』
『ぼくの胸に希望がわいてきた』

このような文で小説全体が構成されます。
そして、一人称の小説の地の文は伝聞(主人公が他人から聞いた話)以外はすべて「主人公視点」です。

視点というのは、映画やドラマでいうとカメラワークです。カメラがどこを映しているかです。
「主人公視点」の場合は主人公の視界、つまり主人公の目に見えているものしか(事実としては)描写できません。

それともう一つ、映画やドラマと違って小説では主人公の心の中の様子や体で感じる感触や感覚、感情や考えていることなども言葉にして書けます。

例えば漫画だとセリフ以外の思っていることを書く吹き出しの部分。
これは、一人称の小説の場合は主人公の思ったことしか基本的には書いてはいけません。
ここ、重要です。
マチュアの方が書いた小説で、一人称の小説なのに主人公以外の気持ちが書いてあるの、たまにあるんです。

ハッキリと『○○(主人公以外のキャラ)はこう思った』って書いてあるのは論外ですが、他にも『悲しくなった』『天にも昇るような気持ちで』『すがるような思いで』など、感情を主観で表すときに使う言葉は、主人公以外の登場人物に使ってはいけません。
なぜなら、語り手である主人公は他の人の気持ちなんて想像でしかわかるわけがないからです。

つまり主人公の想像としてなら書いてもよいので、上記の言葉を書き換えるとしたら、
『○○はきっとこう思っただろう』
『○○は悲しそうな顔をした(悲しそうに見えた、悲しそうだった)』
このように、主人公からどう見えているか、どのように思えるのかという書き方をするべきです。
主人公が他のキャラの内側に入っていって勝手に心の中を覗き見て語ることはできません。

それと、主人公視点の一人称なのに主人公の顔が見えているかのような描写も気をつけたほうがいいです。
たとえば
『おれは顔が真っ赤になった』
とか
『ぼくの顔が青ざめた』
鏡でも見ない限りは自分の顔色は見えないので、このような書き方は不自然です。
一人称で書く場合は
『おれは顔が熱くなった』
『ぼくの頭から血の気が引いた』
などと書くべきです。
一人称では、主人公の目からは見えていないはずのものは描写できません。

また、一人称の小説では主人公がいない場面の出来事は基本的には書けません。
どうしても必要な場合は『後から聞いた話だが、〜だったそうだ』というふうに伝聞調で書きます。
ただし、主人公が後でその話を聞くとストーリー上まずい場合や、絶対に主人公が知り得ない話は、たとえ伝聞調であっても書けません。
この点を考えると、登場人物が多く、主人公がいないところで話が進むような込み入った物語には、一人称は不向きと言えます。

ちなみにこれは余談ですが、もし途中で地の文の語り手を他のキャラと入れ替えたい場合は、大きな章ごとに区切るといいと思います。
その場合、語り手が入れ替わったことを早い段階で読者に知らせる必要があります。早めに名前を名乗らせるのが手っ取り早いと思います。

一人称の小説は、「主人公が書いた日記」だと思えばわかりやすいです。
日記には、自分が見聞きしたことや自分が思ったことしか書けませんよね。
ですから、一人称で小説を書くときには自分が主人公になったつもりで、徹底的にそのキャラになりきって書きましょう。

次に、三人称の説明をします。

三人称とは、「彼」「彼女」「あいつ」「あの人」など、自分以外の第三者を指す言葉です。
三人称で書かれる小説の語り手は、主人公ではありません。また、どの登場人物でもありません。
三人称の小説の語り手は、作者自身であり、透明人間であり、その作品の世界の神でもあり、架空の実況者でもあります。

腐女子がよく言う「推しカプが住んでる部屋の壁になりたい」という言葉の中の『壁』がまさにこれです。

三人称の小説の語り手は、登場人物たちの行く先々についていき、部屋の壁になったり天井になったり透明な空気になったりして、自由な視点から彼らを見ることが出来ます。

さらに、この語り手は登場人物の心の中も覗き見ることが出来ます。
時には主人公の中に入り込み、主人公の目を使って周りの世界を見て、まるで主人公本人のようにその気持ちを代弁することもあります。
また、主人公だけでなく他のキャラの考えていることもわかります。

ただ、気をつけていただきたいのは、主人公以外の気持ちを語りすぎるのはあまり良くない場合もあるという点です。
なぜかと言いますと、たとえばそれがラブストーリーの場合、主人公が片想いしている相手の気持ちが読者にすぐにわかってしまったら、面白くありません。

お互いの気持ちをバランスよく描写して、気持ちのすれ違いを敢えて明確にし、読者を楽しませたりハラハラさせる目的なら構いません。
ですが、「相手の気持ちがわからない」という悩みやせつなさ、もどかしさを描きたい場合は、ある程度は相手の気持ちを描写しないまま話を進めるか、あるいは最後まで主人公の気持ちだけを描写し続ける方がいいと私は思います。

また、恋愛ものに限らずとも、あまりにも視点や気持ちが複数のキャラに入れ替わるのはよくありません。読者が疲れてしまったり、ややこしくてわかりにくくなります。

三人称の小説で、複数のキャラが登場している場面では、視点をなるべく一箇所(一人)に絞った方がわかりやすいです。

三人称の小説を書くうえで重要なのは、「今、誰の視点で(誰の気持ちを)書いているのか」です。
これがわかりづらいと読者は頭の中が混乱してしまいます。

「今は主人公のA君から見た景色を描いているよ。今語っているのはA君の気持ちだよ」っていうのが読者に伝わらないといけません。
初心者さんの小説はこれがわからないことが非常に多いです。
たとえばA君目線で見たものを書いている次の行ではすぐにB君の気持ちを書いている。
これでは、読者は誰の気持ちを考えて読めばいいのかわからなくなってしまいます。
登場人物に感情移入できない小説は、読者にとっては読みにくかったりつまらないものだったりします。それに、感情移入できる小説の方が読者により深い感動を与えることができると思います。

また、視点が安定していても、セリフや行動が誰のものなのかわかりづらい文章もあります。
これをわかりやすくする方法は、主語を省略しないできちんと書くことです。

最近の二次創作小説は主語を省く文体がかっこいいと思われているのか?って思うぐらい主語がない文が多くないですか?
それでも、文章力のある作家さんならちゃんとわかるし読めるんです。
主語はただ省けばいいってもんじゃないです。かっこいいからといって、初心者が迂闊に真似するのは危険です。
私は、わかりにくいよりは、かっこよくなくてもちゃんと主語がある文章の方がいいと思います。

とりあえず最初は主語を書いておいて、後で読み返して重複しているところや無くてもわかるところは削除すればいいんじゃないでしょうか。

たとえば、

『Aは今朝寝坊して学校に遅刻した。
Aはせっかくやった宿題を家に忘れてきたし、最悪の気分だった。
Aが休み時間にふて寝していると、頭をこつんと小突かれた。』

全ての文に主語を入れると、「Aは(が)」という言葉が何度も出てきてしつこいですよね。
小説では、同じ言葉をあまり何度も繰り返さない方が洗練された文章に見えます。
なので、ここでは主語は最初の文だけに入れておいて、あとは取ってしまってもいいです。

『Aは今朝寝坊して学校に遅刻した。
せっかくやった宿題は家に忘れてきたし、最悪の気分だった。
休み時間にふて寝していると、頭をこつんと小突かれた。』

むしろ、この場面だけなら、主語がいっさいなくても大丈夫です。何故なら、ここではまだ主人公一人のことしか書いていないから。

でも、この後、主人公の頭を小突いた人物が登場すると、二人分の表情や動きの描写をしなければならず、主語が必要になってきます。

『顔を上げると、隣のクラスの友人Bが笑っていた。
「寝癖、ついてるぞ」と言われ、自分の頭に手を当ててみるが、触っただけではよくわからない。
「鏡見ないとわかんねえ」
「トイレ行って直してこいよ」
「ああ、そうする」』

この文章はさっきの続きで、最初の主語が「Aは」だったのでので、A視点で書かれているのだろうと推測できます。新たな登場人物Bが出てきても、変わらず主人公Aの視点のままだとすると、寝癖がついていると言ったのはBで、言われて自分の頭を触ってみたのは主人公Aだということが想像できます。

ですが、次のような文章だったらどうでしょうか?

『顔を上げると、隣のクラスの友人Bが笑っていた。
「寝癖、ついてるぞ」
「え?どのへんに?」
頭に手を当てる。
「鏡見ないとわかんねえ」
「トイレ行って直してこいよ」
「ああ、そうする」』

この場合、セリフが誰のものかわからないせいで、寝癖がついているのがどちらなのかもわかりませんよね。さっきの文章と違って、Bの頭に寝癖がついていて、それを見た主人公が指摘したようにも受け取れます。

これをもっとわかりやすくする方法は、動きに主語を入れることと、セリフの主が誰かを明確にすることです。

『Aが顔を上げると、隣のクラスの友人Bが笑っていた。
「寝癖、ついてるぞ」とBが言った。
「え?どのへんに?」
そう言いながら、Aは頭に手を当てる。
「鏡見ないとわかんねえ」
Aが言うと、Bは「トイレ行って直してこいよ」と言った。
「ああ、そうする」とBは言った。』

これは、小説の文章としてはどうでしょうか。状況はわかりやすいのですが、少しテンポが悪く読みにくいですよね。
セリフの一つ一つを誰のものか明記すると、どうしても「言う」とか「言った」とかが多くなってしまいます。くどいですよね。
これをたとえ「口にした」とか「尋ねる」「答えた」などに言い換えても、無駄が多くまどろっこしいという印象は変わりません。
ですから、いちいち全部のセリフを誰が言ったか書く必要はありません。
でも、全く書かないのもわかりづらいです。
だからセリフが連続するときは、最低限、つまり最初と最後だけ、誰が言ったのか書けばいいのです。
あとは文末のリズムなどを整えれば読みやすくなります。

『Aが顔を上げると、隣のクラスの友人Bが笑っていた。
「寝癖、ついてるぞ」とBが言った。
「え?どのへんに?」
Aは頭に手を当てる。
「鏡見ないとわかんねえ」
「トイレ行って直してこいよ」
「ああ、そうする」
そう言ってAは立ちあがった。』

こんな感じで、前のよりはだいぶスッキリしたと思います。でも、どのセリフが誰のものかわかりますよね。

会話文が多い小説を書く人は、この「最初と最後だけ誰のセリフかを書く」という方法を覚えておくと便利だと思います。

キャラの口調や性格(どういうことを言いそうか)の違いで誰のセリフか書き分けるという方法もありますが、よほど口調に違いがないと難しいですし、そもそも口調に特徴がないキャラもいますので、その場合は誰のセリフなのかきちんと書いたほうが読者にとっては親切です。
(ただし、小説は脚本ではないので「」のまえにキャラ名だけ書くというのはやめたほうが無難です。それだけで読む気をなくす読者もいます)

さて、ここで少し話を戻したいと思います。

さきほど、三人称の小説の語り手は「作者」であり「神」であり「実況者」でもあると書きました。

三人称の小説の視点は、よく「神様視点」と呼ばれます。
それは、語り手が登場人物からは見えない透明な存在でその場に居ることができるからです。
そして、この「神様視点」という言い方は、語り手が登場人物の心の中を自由に覗き見ることができるという意味も含まれています。

この神様がどんなタイプの神様なのかを考えることで、作風も変えることができます。

登場人物の感情に興味がなく、ただその場から見える情景と聞こえる声を淡々と語るだけの神様なのか、それとも、すぐに登場人物の心の中に入り込み、時には主人公とほぼ一体化してしまうような神様なのか。
これによって読者の好みもわかれます。

ダラダラと長い心理描写なんていらない、風景や人物の表情や動きを緻密に描写してほしい。登場人物の気持ちは自分で想像したい。そういう考えの読者もいます。
逆にハッキリとした心理描写を好む読者もいます。
どちらの書き方を選ぶかはあなた次第です。ハッキリどちらとは決めず、中間ぐらいが、実はちょうどいいかもしれません。

また、登場人物の心の中を見たがる神様は、2種類のタイプに分かれます。
一人の人物の心の中だけしか見ない神様なのか、あちこちいろんな人の心を覗いて見る神様なのか。

いろんな人の心の中を見る神様が語り手だと、読者が気持ちの切り替えに疲れてしまってついていけない場合があります。
少なくとも一場面の中では一人の気持ちだけを描いた方が好ましいと、私は思います。
ひとつの場面で複数の人物の気持ちが書いてあると、誰に感情移入したらいいかわかりませんから。

三人称で、視点や心理描写が別のキャラに切り替わる時は、やはり最初に主語を明確にして「今は誰のことを書いているのか」わかるようにし、少なくとも一つの段落の中では視点を統一した方がいいです。
「今、神様は○○(登場人物名)の心の中を見ている」ということを頭に入れて、意識して書くと書きやすいと思います。

また、登場人物の気持ちを「外側から覗いて見ている」のと「心の中に入って内側から見ている」のとでは、書き方も違ってきます。
前者だと他人事のように語り、後者だと、登場人物自身が自分のことを語っているのに近い書き方になります。

【例】
前者
『そんなBを見てAは、ふざけないで本当のことを言ってほしいと思った。』

後者
『そんなBを見てAは思った。ふざけんな、本当のことを言いやがれ。』

後者は、Aの思ったことが、A自身の言葉遣いでそのまま地の文に書かれています。
これが長々と続いてしまうと、読者がまるで一人称のように錯覚してしまい、別のキャラの視点へ切り替えたときに違和感を感じてしまうかもしれません。
でも、後者の方が臨場感があって感情移入しやすそうですよね。

登場人物の気持ちをどのような書き方で、どこまで描写するべきか。それは、あなたが読者に何を伝えたいのかによって変わります。

たとえば、この場面では主人公Aの気持ちをわかってほしいから、Bの気持ちは書かなくていい。
でも、つぎの場面でBが何を考えているのか、少し触れておきたい。ただし、主人公はあくまでもAなので、読者がBの感情に寄り過ぎないように、客観的に描写する。
……というように、読者にどんな感情を持たせる目的で書いているのかが重要です。

極端な例だと、主人公AとBの物語なのに、二人の喧嘩をたまたま目撃した通行人Cの気持ちを主観的に丁寧に描写してもなんの意味もありません。
ただし、そのときに目撃者がいた事実が後でストーリーに関わってくる場合は、Cの気持ちは書かずに、見ていたという事実だけを客観的に描写する必要はあります。

必要度によって感情の描写の仕方は変わるということです。

三人称の小説の語り手は、神様視点と呼ばれますが、基本的には自分の感情を持っていません。そこで描かれる感情はすべて登場人物の誰かのものです。
ですが、時には、自分の感情を持っていて、それをしゃべってしまう神様もいます。
勝手に先の展開を予想してみたり、自分の感想や希望を言ってみたり、読者に質問を投げかけてみたり。
これらは、一人称小説のときには普通にやっていることですが、三人称でやる場合には注意が必要です。
なぜかと言いますと、読者からしてみれば「おまえ誰やねん」状態だからです。

『Aは今朝寝坊して学校に遅刻した。
せっかくやった宿題も家に忘れてきた。バカだねえ、こいつは。でもさ、いい奴なんだよこのAって奴は。憎めないんだよ』

……なんて語られたら、「おまえ誰やねん!?」って思わずツッコミたくなっちゃいますよね。

でもこういう書き方は、コメディ調の作品でならおおいにアリなんです。
逆にシリアスな小説でこれをやってしまうと雰囲気が壊れますのでご注意ください。

または、コメディじゃなくても、ちょっとスケールの大きな物語の最初や最後に読者に語りかけたり、疑問を投げかけるような手法は、昔からよく使われていますよね。映画のナレーションみたいなものです。あれは最初か最後ならいいのですが、クライマックスで盛り上がってるときに語られたら邪魔ですよね。誰!?って思いますよね。

このように、本来ならその場に存在するはずのない語り手の感情を書いたり、存在をほのめかすことは、いわゆるメタ発言と同じようなものです。
登場人物に感情移入したりその世界に没頭して読んでいる読者がいきなりこれをやられると、一気に気持ちが冷めてしまいます。
メタ発言は、「この物語はフィクションです!作り話ですよ!ぜーんぶ嘘!本気にしないでね!」と登場人物が大声で言っているようなものです。
語り手が自分の感情や考えを語ることも同じで、その小説が作り話だということを読者の目の前に突きつけているようなものです。

小説はフィクションだから作り話に決まっている?
最初から作り話だとわかって読んでいる?

読者を笑わせるのが目的のコメディならそれでも構わないと思います。
でも、読者をハラハラドキドキさせたり、感動して涙を流させる、そんな小説が書きたい場合、それではダメです。

読者の心を動かすのは登場人物の本物の感情です。
たとえ架空の人物でも、物語の中では生きている。その世界に本当に存在している。そのぐらいの心構えでやらないと、そう簡単には人を感動させられる作品は作れません。
だから、精一杯、本物のフリをしてください。
そこに語り手が顔を出してはダメなんです。

でも、上手くやればこの手法で、笑えて泣けるコメディ感動作品なんてのも書けるかもしれませんが……。
その場合、語り手さんに感情移入してしまって最後まで「結局おまえ誰なんだよ!?」って思い続けそうです。

結論。
三人称は神様になりきって書きましょう。
極力、自分の感情は表に出さずに。
語り手に人格はいらないよ。

ちなみにですが、これ、漫画を描く人もよかったら気にしてみてほしいです。
漫画にも地の文のようなものがありますが、それが一人称なのか三人称なのか、誰の視点なのかというのを気にして描かれていると読みやすいと思います。
また、一場面の中で登場人物全員の心の声が漏れまくっていると、うるせーって思ってしまいます。
テレパシーで会話してるのか?と思ったりもします……。
登場人物の気持ちを、表情やセリフや動きじゃなくて心の声で表すときは、一場面では一人に絞った方がいいと思います。

小説をものすごく読み慣れている人は、この視点の書き分けが何も考えずにごく自然に出来ていたりします。とてうらやましいことです。
でも、ほとんどの人は意識して書かないと視点がブレブレになってしまう恐れがあります。
視点ブレブレなのは、映画で言うとカメラの手ブレがひどかったり、アングルが目まぐるしく変わって安定しないのと同じです。
視点をずっと変えるなとは言いませんが、変えるときは必要最低限のカット数で、なるべく自然に、誰の視点なのかを明確にしましょう。

さてさて、ここまで長々と視点について書きましたが、いかがでしたでしょうか。
だいぶ私個人の好みも入っていますので、あまり鵜呑みになさらずに、こういう考えで小説を書いてる人もいるんだな〜って参考程度に思っていただければ幸いです。


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